数学の教師に「才能」は不要です
こんにちは。masaです。
毎日ブログ更新を心掛けていますが、日々いろいろなことがあり、なかなか順調にはいかないものです。今日も気長に記事を書いていけたらと思っています。
さて、筆者は周りの人たちに、このようなことを言われるケースがあります。
数学の先生なんて、すごいね!
とか、
数学を教えられるなんて、すごい才能だね!
などといったものです。結論から言うと、
- 才能など、ないに等しい
と筆者は思っています。この辺りを簡単に書いていこうと思います。
筆者に才能はゼロ
中学や高校時代の筆者の才能はゼロでした。
- 運動神経はゼロ。特に長距離走は大の苦手
- 勉強の才能はゼロ。中学校時代は真ん中より下の順位
もともと、体が大きかったので、運動神経は全くと言っていいほどありませんでした。
勉強ができるわけでもなく、何か特別秀でたものは何一つ持ち合わせていなかったのです。
今でも、自分のことは「雑魚」だと自覚しています。世の中には、才能であふれている人はたくさんいますからね。
そして、そこに努力が重なると、私にはとても太刀打ちできません。
筆者にあったのは「悔しさ」
しかし、次のようなものはありました。
- 他の人が勉強でいい点数を取ると、なんだか悔しい
ココです。
中学校時代には大きな劣等感を感じていて、周りの人たちに比べて、「自分はなんて小さな存在なんだ」という思いが強かったような気がしています。
でも、その中でも「勉強」の点でなぜか悔しさを覚えていたんですね。ですから、成績を上げたいという一心で、心機一転、勉強をする決意を持ったのです。
才能ではなく「無心に努力」してきた
これまで、中学高校、そして大学で必死になって勉強していました。でも、
- 思うような成績が出せない自分が嫌い
- 周りにはもっと優秀な人がたくさんいる
ということは感じていて、それでも勉強に対する熱意は失いませんでした。
「雑魚」なりに「無心に努力」してきたわけですね。勉強することに大きな価値を見出していたのです。
その結果、「並みレベル」の数学の力量を持ち合わせることができました。
世の中には数学の才能あふれる人たちがゴロゴロいて、私などその足元にも及びません。
まとめ
今回は簡単な記事でしたが、簡単にまとめると
- 数学の教師に才能は不要
- 悔しさがあったから、勉強を続けられた
- 勉強に価値を見出していたから、無心に努力できた
ということです。
数学が単純に「好き」だったのでしょうね。いまだに教えることが好きですし、数学を考えることも好きです。
結局、「好き」であることが最も重要な要素だったのではないでしょうか。